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エヴアの使徒とは、「強く生きる生命体ヘの憧れ」が具現化したものである。

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エヴアの使徒とは、「強く生きる生命体ヘの憧れ」が具現化したものである。

使徒について、次のような仮説を提唱したいと思う。
すなわち、使徒とは、
ゲンドウやキールの恐怖心が具現化したもの、

すなわち、人間の恐怖心の代表としての
彼らの妄想の産物にほかならないという仮設である。

思い出していただきたい。
第弐拾話で、シンジが、初号機に取じ込まれそうになり、
エントリープラグに取り込まれそうになり、
エントリープラグに閉じ込められて、からだが、一時的に溶けてしまった時、

ワイシャツ姿で搭乗していたはずだったにもかかわらず、
プラグ内に、プラグスーツが、実体として現れ、

リツコが、この現象を
「彼の自我イメージがプラグスーツを擬似的に実体化させている」
と解説していたではないか。

つまり、この物語では、
人の心が、実体を形作るのであり、

このことは、第26話「まごころを、君に」での
「人の心が、その人の形を作っている」
というカヲルの台詞につながり、

シンジの意志によって、「補完」されかかった人間が
再び人の形を取り戻しうることの根拠となっているわけだが、

第弐拾話を思い出せば、心が形成しうるのは、
自分自身の形のみならず、
その外部の存在についても同様であるということがわかる。

もちろん、このような「心の力」が、
日常的に無制限に発揮されてしまったら、
物語の秩序が壊れてしまうので、

その発現は、きわめて特殊な極限状態に限られてはいるが、
ゲンドウやキールの恐怖心、妄想の大きさは、
まさに、極限状態というにふさわしい、
異常なものだったのだと考えれば、
すべては、矛盾なく説明できる。

場合によっては、妄想の主として
「裏四海文書」を書いた人物を加えてもよいだろう。

人間同士の関係に対して恐怖心を抱いていた彼らが、
その恐怖心ゆえに、
人類の外部に対しても、不安を抱き、

一方では、群体ではなく、
単体として、強く生きる生命体ヘの憧れが加わって、

群体として生きる人類の対極に位置する生命体を、
妄想によって生み出したのである。

もともと、妄想の産物であれば、彼らの
「裏四海文書」の通りに襲来するのは当然であり、

また、彼らの「対人恐怖」ゆえに、
使徒たちは、徐々に、彼らが最もおそれる
「心の中への侵入」
へと進むのである。

それも、決して、彼らの意表をつくような形でではなく、
彼らが恐れれば恐れるだけ、
徐々に、行動を「進化」させるのである。

リリスやジオフロントは、彼らの妄想以前に
存在していたと考えてもよいだろう。
そう考えれば、「白き月」が、ジオフロントに酷似していることも、
ジオフロントを踏まえたうえでの彼らの妄想の産物ゆえ、
当然の帰結となる。

この場合、欠番の「第二使徒」が、
リリスのことであると考えにくくなると思われるかもしれないが、
「使徒」の番号が、
必ずしも発見順につけられるとは限らないと考えれば、問題はない。

また、「第二使徒」は、リリスではなく、
セカンドインパクト直後に殲滅された別の使徒であると考えても、全く、問題はない。

さらに、アダムとリリスとは、
どちらも第一使徒であり、第二使徒は欠番であるとしても、もちろん、かまわない。

映画「シト新生」のパンフレツト(プログラム)の中の「用語集」の
「第2のシト」の項には、
「ターミナルドグマ深奥に拘束されたリリスを当てる説もあるが、真相は不明」と書かれており、

おそらく、作者としても、ここは、
「どう考えてもよい」と考えているのであろう。
(ただし、一部の解釈本にあるような横波レイを
第二使徒と考えるという解釈はまずい。

なぜなら、レイが使徒と同列に扱えるのは、
リリスをアダムと同列に扱う時に限られるからである。

初号機を第二使徒とみなす解釈についても同様である)。

一方、リリスを、アダムと同様に、これも、
ゲンドウたちの妄想の産物と考えると、
人類の始祖たる存在が、
人類の後に「誕生」したことになり、

これは、完全にパラドックスであり、
「エヴア」のような物語の場合には普通ではないが、
別に間違っているとは言えず、
むしろ、この解釈の方がリアリテイーを持つように思う。

使徒がゲンドウたちの妄想の産物であるというこの説は、
「ずるい」と言われそうではあるが、

使徒の由来、その襲来を「裏四海文書」が正確に予言できた謎、
そして、使徒の行動に「進化」を思わせるような
連続性がある理由という
すべての問題を一挙に解決できる上に、

第弐拾話で示されていた、
この物語の内部のリアリズムにも合致しているのである。

そして、使徒とは、コミュニケーションに関する
人間の恐怖心を表すものであるという、
この作品のテーマに直結しているということになる。

こう考えると、ゲンドウは、
自らの妄想の産物と戦っていたことになるが、
これは、決して、「滑稽」というべき状況ではなく、

ひょっとして、人間の営みの多くが、似たようなものかもしれない。

なお、「企画書」段階では、使徒が「第一始祖民族」の残した
「古代遺物」となっているということは、既に記したが、

完成した作品の第弐拾話
「心のかたち 人のかたち」に相当すつエピソードは、「企画書」にはない。
これも、このエピソードが、使徒の正体に関する
設定の変更にともなって必要となった可能性を示唆しているように思われる。

第拾壱話のラストの使徒を倒した後、
三人のパイロツトが第三新東京市を一望できる丘で、
夜空を見上げながらくつろいでいるシーンでレイが
「人は闇を恐れ、火を使い、
闇を削って生きてきたわ」と言い、シンジは
「だから人聞って特別な生き物なのかな?
だから使徒は攻めて来るのかな?」と言うシーンがあったが、

人聞の恐怖心が使徒を生み出したと考えれば、
シンジのこの時の推理は、当たっていると言えよう。

人間の心の中には、大きな闇の部分があって、
それを埋めるのが「補完計画」であると、ゲンドウは考えていたようだし、
そのことは、テレビ版の最終話でも示唆されている。

そして例えぱ、レイのマンシヨンが大規模マンションであるにもかかわらず、
住んでいるのは四0二号室のレイだけで、
荒れて、廃墟のようであったりするといった、
アンバランスな風景も、
人の心の中の「闇」や「空白」の象徴であると考えられる。

が、「補完」が発動され、
人々の魂が溶け合い始めた時、
その「空白」を埋めていったのは、ただ、「孤独」であった。

「孤独が、人の心を埋めていくのね」というレイの台詞は、
「補完」の空しさを表す以外の何ものでもない。

実際には、最も「補完」されるべきであったのは、
「補完」が必要だと考えていた心であったのだ。

そして、主人公、碇シンジの場合には、ある意味では、
そういう意味での「補完」は、ついに、実現したといってもよい。

もちろん、ゲンドウらの「補完」を拒否することによってである。
そして、テレビ版の最終話が示唆していたのは、
そういう「補完」に他ならない。
引用元
エヴァンゲリオン解読 新版―そして夢の続き


(エヴァンゲリオン ダミーシステムの暴走でトウジのエヴアを喰らうシーン)


(エヴァンゲリオン 序 [ラミエルシーン集])


(「君の名は。」予告2映像)


(スカイダイビング中のインストラクターの裏切りあべりょう)


(「君の名は。」予告映像)

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作成者: kitui

ウェブセールスコピーに乗せられて
手を出してはうまくいかないを繰り返して

借金作って返済にヒーヒー言ってます。

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